オリヴィエ・メシアン

オリヴィエ=ウジェーヌ=プロスペール=シャルル・メシアン(Olivier-Eugène-Prosper-Charles Messiaen、1908年12月10日 - 1992年4月27日)は、20世紀のフランスおよび世界を代表する作曲家。アヴィニョンに生まれ、クリシーの病院で亡くなった。 オルガン奏者、ピアニストとしても長年演奏活動を続け、録音も数多く残している。また、本人は作曲家としての肩書きに「リズムの創作家」をも名乗っており、神学者としても稀にみる博学さを持ち合わせており、そして鳥類学者として世界中の鳥の声を採譜した貴重な偉業を成し遂げた。色彩についての言及がことさら多く、音を聴くと色彩や模様などを連想するという共感覚の持ち主であり、その詳細な記述は世界の人々を驚愕させたが、それを楽譜に書き込むことも多かった。

1931年に、22歳の若さでパリのサント・トリニテ教会のオルガニストに就任した。そこでの即興演奏は世界中に評判となり、彼の即興演奏を聴こうと人々は教会を熱心に訪れることとなった。彼はこの職を、その最期まで60年以上も務めることとなった。

ちなみに、彼の命日を日本においては1992年4月28日とした情報が旧来からあったが、最近ではそれは誤報であったことが知られており、正しくは1992年4月27日と改められている。

経歴

フランス南部のアヴィニョンで生まれた。8歳の頃からひとりでピアノと作曲の勉強を始め、11歳でパリ音楽院(コンセルヴァトワール)に入学。在学中より多くの作品を残し、1930年頃からはインドやギリシアのリズム、音と色彩の関係、鳥の鳴き声などの探求を始め、その影響が作品にあらわれるようになり、独自の音楽語法として用いるようになる。中でも移調の限られた旋法(M.T.L.)は、広く知られ、晩年まで彼の特徴的な雰囲気を形づくる一つの要素として様々に使用された。

1931年、パリのサントトリニテ教会のオルガニストとなり、そこで彼は即興演奏の技術を確立するとともに、多くの宗教音楽を作曲した。第二次世界大戦中にはドイツ軍の捕虜となり、収容所内で世の終わりのための四重奏曲を作る。1942年にパリに戻ってからは、母校であるパリ音楽院の教授となり、生徒としてピエール・ブーレーズ、カールハインツ・シュトックハウゼン、ヤニス・クセナキス、トリスタン・ミュライユ、ジェラール・グリゼーなど、日本人では別宮貞雄、矢代秋雄、丹波明、端山貢明、平義久、宍戸睦郎、篠原眞、吉田進、加古隆、福士則夫、仲俣申喜男、藤井一興、小鍛冶邦隆、安田正昭などを教えた。

著作も大変多く、特に初期の著書「わが音楽語法」は日本でも翻訳されている(ただし日本語訳は現在絶版)。わが音楽語法を残した後、前衛の時代に入っても独自の探求は継続し、「クロノクロミー」、「天の都市の色彩」では理論の複雑化が頂点に達した。メシアン本人は「わが音楽語法の続編」を「リズムの教程」として簡易なブックレットの形で出版する意向を強く望んだが、その望みが果たされることはなかった。メシアンの死後、残された遺稿集を全て出版する計画が始まり、全7巻の遺稿集がLeduc社より出版された。個人の残した音楽理論書としては最大の規模を持つ。

電子楽器、オンド・マルトノを使用した「トゥランガリーラ交響曲」をはじめ、多くの作品が現在のクラシック音楽の基本レパートリーとして親しまれている。最初の妻の死後再婚したピアニストイヴォンヌ・ロリオのために書かれた作品が多く、ピアノ曲はもちろん、多くの管弦楽曲にピアノ独奏を含む。中でもピアノ曲「4つのリズムの練習曲」に含まれる「音価と強度のモード」は、戦後の現代音楽の出発点となったトータル・セリー(総音列技法)の理論を最初に提示した曲として重要であり、後にブーレーズがこの曲と同じセリーを用いて「構造I, II」を作曲した。鳥の鳴き声に基づく作品としては、全2時間にも及ぶ長大なピアノ曲集「鳥のカタログ(鳥類譜)」、フランス以外の世界各地の鳥の声を採用したピアノ協奏曲「異国の鳥たち」、同じくピアノ協奏曲「鳥たちの目覚め」、フルート曲「クロツグミ(クロウタドリ)」など多数。また宗教的な作品として、ピアノ曲「幼な子イエスに注ぐ20のまなざし」、「アーメンの幻影」、オルガン曲「オルガンの書」、「聖三位一体の神秘についての瞑想」、「聖体秘蹟の書」など、管弦楽曲「神の現存の3つの小典礼」、「我らの主・イエスキリストの変容」、「峡谷から星たちへ」、「彼方の閃光」など、そしてオペラ「アッシジの聖フランチェスコ」などがある。

1971年、エラスムス賞受賞

ローレンス・オリヴィエ

ローレンス・オリヴィエ(Lord Laurence Olivier, 1907年5月22日 - 1989年7月11日)は、イギリスの俳優、映画監督。アカデミー賞を受賞し、シェイクスピア俳優としても有名。20世紀の名優として多くの映画人から称賛される。本名はローレンス・カー・オリヴィエ(Laurence Kerr Olivier)。愛称はラリー(Larry)。

生涯

サリーのドーキングに生まれる。父は16世紀末のユグノー戦争でフランスから逃れてきたユグノーの子孫で、英国国教会牧師であったジェラルド・カー・オリヴィエ師。のちにオリヴィエは自伝において「上品だが貧しく、野心を抱くには最も適した環境に育った」と記してある。3歳の時にロンドンへ移り、母の希望で9歳でオール・セインツ教会聖歌隊に所属し、音楽を学ぶかたわら演技の勉強もした。12歳で母を病気で亡くす。1921年にオックスフォードのセント・エドワーズ・スクールに学び、1922年にはオリヴィエの最初のシェイクスピア劇出演となる聖歌隊の公演である『じゃじゃ馬ならし』でケイト役に扮し、続いて1923年に学校劇で『夏の夜の夢』のパック役を演じて大成功を収める。この頃から俳優になることを決心し、また貧しい家庭環境で息子が世に出るには演劇の道しかないと判断した父親から風呂の中で「お前は俳優になるのだろう?」と言われたこともあり、1924年に17歳でロンドンのセントラル・スクール・オブ・スピーチ・アンド・ドラマに入学した。

1925年にプロとしてスタートを切り、同年の秋にブライトンのヒポドローム劇場での『幽霊列車』で初舞台。1926年にバーミンガムのバーミンガム・レパートリー・シアターの『農夫の妻』の巡業に参加し、そのまま同劇団と契約する。最初は端役しか貰えなかったが、後に『ハムレット』や『マクベス』の古典劇から新作劇まで数々の舞台をこなし、舞台俳優として着実に実績を重ねていく。この頃には生涯の友となるラルフ・リチャードソンと出会う。

1928年にフリーに戻り、1929年に『三階の殺人』のニューヨーク公演にも参加する。

1930年にドイツ・ウーファ社の "The Temporary Widow" にて映画デビュー、また同年には女優のジル・エズモンドと2年間の交際が実って結婚する。結婚後出演したノエル・カワードの舞台劇『私生活』がヒットし、ブロードウェイに進出。1931年、ブロードウェイ公演終了後にハリウッドへ呼ばれ、"Fred and Lovers" など3作品に映画出演、2年近く滞在することになった。

1933年に帰国し、ロンドンの舞台に復帰する。1937年には映画『無敵艦隊』(Fire Over England )で共演したヴィヴィアン・リーと恋に落ち、人目を忍ぶ中がしばらく続いた。同年にシェイクスピア劇の本拠オールド・ヴィック・シアターに加わり、『ハムレット』や『十二夜』の舞台が成功したのを機にスター俳優としての声価も確立するようになる。1938年に『嵐が丘』の撮影のため渡米。撮影の合間に『風と共に去りぬ』の映画化が決定したことから、スカーレット・オハラ役を熱望していたリーを呼び寄せて製作者のデヴィッド・O・セルズニックに紹介する。

1940年8月に『美女ありき』の撮影中にエズモンドとの離婚が成立、撮影終了後に晴れてリーと再婚し、帰国する。

帰国後は海軍に志願、航空隊のパイロットとして海軍に在籍中の1943年に、命じられて国威発揚映画 "The Demi-Paradise" と『ヘンリィ五世』を監督・主演。特に『ヘンリィ五世』はシェイクスピア劇の完璧な映画化と絶賛される。1944年にはラルフ・リチャードソンとともに、ドイツ空軍のロンドン爆撃で劇場が破壊されて以来、停止していたオールド・ヴィク座の再建に尽力。

終戦後はヨーロッパ各地やニューヨークに巡業し、批評家から絶賛される。これらの功績により、1947年にナイト位を授けられる。この年に製作・監督・脚色・主演した映画『ハムレット』が1948年度のアカデミー作品賞、主演男優賞を受賞。名実共にイギリスを代表する名優にまでのし上がる。

しかし、私生活ではリーのニンフォマニアの症状と躁鬱病の発作に悩まされ続け、1957年に舞台や映画“The Entertainer ”で共演した新進女優ジョーン・プロウライトとの生活に安らぎを見出して、ついに1960年にリーと離婚、プロウライトと再婚する(最後にして3度目)。1962年から1963年までナショナル・シアターのディレクターを務め、1970年には俳優として初めて貴族(ロード)の爵位が与えられ、男爵(Baron Olivier)となる。

1989年に死去。子供はエドモンズの間に一男、プロウライトとの間に一男二女を儲ける。アカデミー賞にはスペンサー・トレイシーと並んで最多である9回ノミネートされ、1947年と1979年にはアカデミー特別賞を受賞。一方、『インチョン!』という迷作に関わってしまったために1983年にはゴールデンラズベリー賞の最悪主演男優賞を受賞することとなった。1984年に自伝『一俳優の告白』を発表した。本人が最も気に入っている作品は、意外にも残忍なナチスの残党を演じた1976年の映画『マラソンマン』だという。

オリヴィエの死後に出版された伝記等には、オリヴィエがバイセクシュアルであった可能性が示唆されている。3番目の妻であったジョーン・プロウライトは、オリヴィエは彼女との結婚前にダニー・ケイと関係を持っていたと仄めかしている。また、俳優のデヴィッド・ニーヴンは、ある時オリヴィエとマーロン・ブランドがプールでキスしているところを目撃したと語っている。

ロビー・オリヴィエ

ロビー・オリヴィエ(Robbie Olivier、男性、1978年12月21日 - )は、イギリス出身の総合格闘家。ツナミジム所属。イギリスの総合格闘技イベントCage Rageを代表する軽量級ファイター。現Cage Rage英国フェザー級王者。

職業は消防士。柔道がバックボーンであるが、打・投・極に穴のないファイトスタイルを有する。

来歴

Cage Rageには旗揚げ戦から参戦。

2006年9月30日、Cage Rage 18でブラッド・ピケットにチョークスリーパーで一本勝ちし、第2代Cage Rage英国フェザー級王者となる。

2007年2月10日、Cage Rage 20では世界フェザー級王座を賭けて日本の今成正和と対戦し、1R開始29秒、腕ひしぎ十字固めで一本負け。

2007年7月14日、Cage Rage 22でロニー・マンを3-0の判定で下し、英国フェザー級王座を防衛した。